いま、何が起きているか

 ご紹介いただきました北海道大学の宮本です。創立45周年記念の、たいへんおめでたいシンポジウムにご招待いただき、ありがとうございます。45年といいますとたいへん長い歴史であると思います。45年前、高度成長がはじまった頃にはおそらく予想もしなかった事態が日本を襲っているのかもしれません。といいますのも、たとえば昨日の新聞報道によれば年収200万円以下の人たちが1000万人を超えました。正規職員並みに働いても貧しい、ワーキングプアと呼ばれる人たちです。ネットカフェ難民と呼ばれる若者たちも、厚生労働省の調査で5400人にのぼるといわれています。日本医師会は、介護難民と呼ばれるお年寄り、行き場のないお年寄りが2010年に4万人近くになるだろうと予測しています。

 この豊かな日本で、いま、一体何が起きているのか。それは地域間の格差と地域のなかでの階層間の格差が絡み合いながら進行しているということです。まずは所得格差。市町村に税金を納めている人たちの平均所得の格差が、1999年の3・4倍から04年には4・5倍に達しました。わが北海道の上砂川町では平均所得が211万円なのですが、東京の港区あたりに行くと850万円くらいになるわけです。たいへん大きな差です。これが都道府県の税収格差、交付税によって調整されているのですが、03年の2・9倍から05年には3・2倍という税収格差につながり、そして自治体におけるサービス格差につながっています。

 たとえば夕張市です。いまは自治体の財政破綻のシンボルのようになってしまいましたけれど、ここで3歳児未満の子どもを保育所に預けようとすると、4人家族の平均世帯で保育料は5万5000円を超えます。東京の世田谷区で同じ条件で子どもを預けようとすると、1万3000円ですみます。豊かな世田谷区ではその程度の負担ですみ、全国から頑張れのエールが届いている夕張市、そこでお母さんが子どもを預けて本当に頑張ろうとすると5万5000円以上とられるわけです。どうやって頑張ればいいのか。そして所得格差もあって悪循環が果てしなく続いていくわけですね。どうしてこんなふうになってしまったのかということです。

 日本はたしかにもともと福祉にはそう熱心な国ではありませんでした。「格差の拡大というのは、日本社会の高齢化が進んでいるからである。つまり高齢化が進むとお年寄りが1人で住む場合が多くなる。そういう世帯と平均世帯との格差は当然あるだろう。だから格差拡大は見かけ上のことである」という議論があって、日本の政府もそういう答弁をしてきました。しかし、ジニ係数の変化を世帯主の年齢階層別にみた、白波瀬佐和子さんのデータである図1をご覧いただきたいと思います。ジニ係数は0から1の間の数字で世帯間の格差をあらわしたもので数字が大きいほうが格差が大きいことになりますが、そのグラフをみると、お年寄りの世帯ではたしかに格差が大きいのですが、だんだん沈静化して格差が縮まってきています。それに対して、若い人たちの間で格差がどんどん拡がっていることがわかります。

 いま、たとえば修学旅行に行けないなんていう子どもがいっぱいでてきているわけです。東京大学の佐藤学先生に話を聞くと、修学旅行に行けない子どもたちは「なんてことないや」と強がっていますが、仲間が修学旅行から帰ってきて思い出話に花を咲かせはじめると、軌を一にしてどこの学校でも荒れはじめるといいます。この豊かな日本で子どもたちがそんな思いをするとは思っていませんでしたが、その背後には子育て世帯における格差の増大というのがあるわけです。

日本型生活保障とは何であったか

 日本は社会保障にそう熱心ではありませんでした。にもかかわらずこれまで大きな格差のない社会だったのは、日本型生活保障とでもいうべきものがあったからです。狭い意味での社会保障にはあまりお金を使わなかったが、会社を潰さない仕組みがありました。大企業については国の護送船団方式の行政指導などによって潰さないようにしたうえで、それぞれの会社は長期的雇用慣行があり、滅多なことでは社員の首を切らなかったわけです。小さな会社では長期的雇用慣行はなかったけれども、たとえば土建業の場合は潤沢な公共事業予算をどんどんつぎ込んで仕事を与えてきた。商店なども大店法のような大きなお店から守ってくれる規制があって潰れなかった。大きな会社も小さな会社も潰さないで、そこでお父さんが頑張って稼いで、お母さんが介護や育児で頑張る、という仕組みでやってきたということです。

 社会保障は薄っぺらだったけれど、もちろん何もやらなかったわけではありません。図2は日本・ドイツ・スウェーデン・イギリスの社会保障支出の内訳を比較したものです。日本は支出の規模はもともと小さいけれども、それをぎゅっと100まで伸ばして他の国と比べてみたものです。ご覧になってわかるように、日本は圧倒的に「年金」でそれから「医療」です。「医療」も4割くらいが高齢者医療ですので、人生後半の社会保障にシフトしてきた。逆に人生前半の社会保障、現役世代の皆さんが仕事を失ったり病気になったり、何か大きなリスクに巻き込まれたときの社会保障というのは非常に薄っぺらだったわけです。「家族福祉」や「失業」などですね。とくに「住宅」はまったくわからないくらいです。どうしてそうなったのかといえば、人生前半は会社と家族が面倒をみてくれる。だから、社会保障が会社と家族が期限切れになる人生後半に集中する。こういう仕組みでやってきたわけです。ところがいま、大企業のサラリーマンだって自分は一生安泰である、リストラされることはないなんて信じている人は誰もいません。いつ首を切られるかわからないし、家族もリスクを吸収してくれるというよりも、子どもの引きこもりだとか不登校だとかいう話をよく聞きますが、むしろリスクの源になっているわけです。だから会社と家族に頼れば大丈夫という時代はとっくに終わっているのに、社会保障は人生後半しかみてくれない。現役世代のなかで、いったん病気になったとか失業したとかいう人は大きなダメージをうける。それを支えるセーフティネットもないということになっているわけです。

 自治体が何とかしなくちゃいけない。しかし皆さんよくお聞きになっているように、自治体にはお金がないという話になります。自治体にお金がないのは事実で、たいへんな債務を抱え込んでいるのも事実ですが、まずどうしてこうなったのかということを確認していくことは決して無駄ではないと思います。どうして自治体はこんなにお金がなくなったのか、借金を抱え込むようになったのかということです。ここではあまり詳しくは立ち入りませんが、要するにこういうことです。中曽根さんの時代、1980年代のはじめですが、彼は小泉さんと同じように、小さい政府、行革を進めるのだと宣言して、都市のサラリーマンの支持を得ようとしたわけです。今回の参議院選挙で1人区からの反乱が起きて民主党が圧勝しましたが、これは小泉さんがあまりにも地方に冷たくしたからです。中曽根さんの頃は、当然地方には冷たくできない時代でしたので、どうしたのか。都市のサラリーマンにうけるためには公共事業をあまりやるとまずい、しかし地方からの支持を得るためにはそれをやらないといけない。ではどうしたかというと、わかりにくい見えにくい方法でこれをやってしまう。どうやるかというと、一般会計の公共事業予算は減らすけれども、その代わりに自治体に借金をさせる。借金の元利償還は交付税で面倒をみるから借金しなさい。それでお金を集めて公共事業をやりなさい。借金を集めるにあたって自治体が発行した地方債はすべて財政投融資の還付資金などで面倒をみるよというやり方で、自治体の尻を叩いて借金をさせたわけです。

 小さな政府といっているから、一般会計上はどんどん減税をするわけです。詳しくは立ち入りませんが、たとえば法人税は80年代からかなりの勢いで下がってきている。所得税も下がってきている。所得税は90年には26兆円あったものが2004年には13兆円と半分になり、法人税は同じく18兆円あったものが9兆円、これも半分になっています。お金がないといいながら、どんどん減税をしてきたわけです。そして自治体の尻は叩いてばんばん借金をさせて公共事業をやってきた。その挙句がこの格差の拡がる現状になってきているわけです。この責任は何とかとってもらわなくてはいけない。昔のことは頬かぶりをして自治体に何とかせよということに対して、もちろん分権は非常に大切で、自分たちのことは自分たちで決めるという流れは継承しなくてはいけませんが、そのことと過去のいきさつのすべてを水に流していいということとは全然違う。これについてはどうしてこうなったのかということも踏まえて、自治体が財政危機を脱していく方法を考えなければならないと思います。

どのような政府がうまくいっているのか?

 さて、それではどうすればいいのかということに話を進めていきたいと思います。どうすればお金を多少使っても元がとれるというか、みんなが元気になって、きちっと税金を払ってくれて税収が増えていくような、そうしたセーフティネットをつくることができるのだろうか。このことを考えていきたいと思います。
 ちょっとややこしそうにみえるかもしれませんが表1をご覧ください。自治体の話とは一段レベルの違う話になってしまいますが、まずヒントを得るためにどのような国がうまくいっているのかをみていきたいと思います。一番上の括りはアメリカとかイギリスとか、小泉さんも安倍さんもモデルにしようとしてきた小さな政府を旨としているアングロサクソンの国々です。二番目の括りが大きな政府で知られる北欧の国、三番目の括りも大きな政府であるけれども、これは大陸ヨーロッパの国々です。社会的支出、広い意味での社会保障支出がGDPのなかでどの程度の割合を占めているかというのをみると、アメリカやイギリスは明らかに小さな政府であり、北欧と大陸ヨーロッパは大きな政府であるということがわかります。

 小さな政府でないと経済がダメになるというのが小さな政府論者の主張ですが、たしかに相対的に小さな政府の国々は経済成長率が高いけれども、北欧の国々も負けず劣らず経済成長率はいいわけですね。それに対して、同じ大きな政府である大陸ヨーロッパの国々は北欧とは違って経済成長率は低い。格差について、さきほどのジニ係数だとか、平均的な所得の半分以下の所得しかない人の割合を示した数値である相対的貧困率でみると、小さな政府の国々はたしかに格差が大きい。大きな政府の国々は格差が小さいし、とくに北欧の国々は格差が小さい。

 もう一つ大事な財政収支、国の赤字の度合いはどうだろうとみてみると、一番成績のいいのは一番大きな政府の北欧で、全部黒字です。小さな政府はお金を使っていないのだから調子がよかろうと思ってみてみると、小さな政府のアメリカやイギリスはむしろ赤字になっている。いくら節約をしても、その結果人びとが元気をなくしてしまって税金も払えなくなるということになると元も子もないわけです。また、同じ大きな政府でも大陸ヨーロッパの国々は軒並み赤字です。この違いはどこからくるのだろうか。同じ大きな政府でも片方は経済成長率もよくて財政収支もいい。片方は成長率も低いし財政収支も赤字である。何がこの違いになっているのかというのはおわかりでしょうか。じつは、同じ大きな支出のなかでも公共サービスにたくさんお金を使っている国は大きな政府でも成長率は高いし、財政収支もたいへんよろしいということになっているわけです。

 それに対して、大陸ヨーロッパの国は、じつは日本もそうですけれども、社会保障というときに、学校だとか介護や育児を支えるサービスにお金を使わないで、「この辺では労災にあうかもしれない、怪我をして働けなくなったらたいへんだから労災保険を用意しよう」「この辺は病気になるかもしれないから医療保険がいる」「この辺になると退職の年齢だから年金保険だ」というように、男性稼ぎ主の典型的な人生の典型的なリスクを対応させて、それを社会保険で面倒をみようというやり方の社会保障や福祉を行っている国はあまり調子がよくない。というのも小泉さんがいうように「人生いろいろ」なのです。典型的な人生の典型的なリスクといっても、みんな千差万別の人生を生きているわけで、予測不能なリスクや想定外のリスクがいろいろなところで起きてくる。そういうリスクに対して、きちっと支えてくれる公共サービスとその期間ちゃんと生活できる所得保障をしている国とそうではない国とで、命運が分かれているわけですね。

地域社会に架ける4つの橋
――参加のためのセーフティネット

 以上の話は国レベルの大きな話ですが、これを自治体や地域レベルに落として考えてみたい。自治体のセーフティネットについて考えてみたいと思います。いま地域社会で人びとが元気をなくしています。そして、どんな困難を抱えている人でも地域社会に元気に参加できる条件を提供することが大事で、その参加を妨げている要因を考えてみると、だいたい4つくらいのグループに分かれるだろうということです。

 一つは知識が未熟で、社会に必要とされる知識が身についていないということがもたらす参加困難。もう一つは育児や介護、近親者のケアに時間をとられて働けないとか、社会に参加できないという困難。第三に、技術や技能の陳腐化が急速に進むなか、働こうにも手に職がないとか、長い間仕事から遠ざかっている間にどうしても時間を守れなくなったとか仕事に馴染めなくなったという、たんなる技能研修では対応できない就労困難な多様な事情。そして第四に、加齢や障がい、あるいは心と体の弱まりに起因する参加困難がある。だいたいこの4つくらいの要因が、みんなが元気に地域社会のなかで頑張ることを妨げているわけですね。それぞれの要因に対応するものは何でしょうか。知識の未熟に対応するのは教育だし、近親者のケアにかかわるのは家族だし、技能や就業機会に対応するのは職業訓練。そして心と体の弱まりについては退職や休職というステージですよね。よく考えてみると、学び、働き、家族とともに過ごし、訓練をうけ、そして休むというのは人生の5つのステージなのです。

 これまでの日本社会は、さきほどお話した大陸ヨーロッパ諸国もふくめてですが、この5つのステージが淡々と進むというように組み立てられてきました。一方通行型の人生だったわけです。退職までうまくいけばご苦労さん、途中で転職するのはけっこうやばい。そういうのが日本的な人生模様だったわけですね。これに対して、さきほど挙げた公共サービスを充実させてうまくいっている国々をみてみると、地域社会で人びとの元気を妨げているようなリスクに対処する公共サービスをきちっと展開しています。図3のように、地域社会に4つの橋を架けることがその公共サービスの意味だと思うのですけれど、具体的に何かというと、I は生涯教育や高等教育になりますし、II は介護や育児のサービス、III は職業訓練や職業紹介のサービスですよね。IV は医療サービスだとか高齢者就労支援などになるわけですが、これがきちっとできているかどうか。しかも行政だけではなく、それに対応するさまざまな非営利セクター・NPOが協力していく。その話はもうちょっとあとにして、この4つの橋が架かると地域社会がどう変わっていくのか。もうちょっと大袈裟にいえば、人生がどう変わっていくのかということです。

 たとえば、この I の橋ですけれども、いま中学や高校でドロップアウトしたら、それを支えるセーフティネットはないですね。ようやくさまざまなフリースクールなどがそこに手を差し伸べはじめてはいるけれども、公的にはセーフティネットがないわけですね。

 ところがこの I の橋がきちんと架かっているとどうなるかということです。たとえばスウェーデンでは生涯教育が自治体の大事な役割のひとつです。日本のように高校の単位を全部とって卒業する人はおらず、いいかげん単位をとったら途中で辞めてしまう。働きはじめるわけです。そして高卒の水準にいたるまで、あと何が、どんな勉強が必要かなということの見当がだいたいついてから、自治体の成人教育をうける。自治体の成人教育のなかに高校の単位がきちっと認定されるようになっているわけですね。つまり地域社会が大きな単位制の高校みたいなものなのです。大学も同じです。高校が終わって大学にストレートに進学する若者は多くない。だいたい4割くらいです。みんないったん働いてみて、自分に合った仕事は何なのか、それに必要な大学教育は何なのか見当をつけて、もう一度大学に戻ってくるわけですね。大学教育も無償ですし、従業員が勉強し直したいといったらきちっと教育休暇を与えなくてはいけない。また戻ってきたときには不利な処遇をしてはいけないという決まりがあるからこそ自由に行き来ができる。そうすると若者たち・子どもたちも元気になりますよね。それは、若者たちの力を十分に引き出すことができるという意味でもその国にとってとても大切なことです。

心身の弱まりによる参加困難に対して

 つぎにIVの橋について考えてみましょう。これは心と体の弱まりは加齢にともなうリタイアだけではなくて、さまざまな苦しみを抱えている人びとにどう対応するか。当人にもどうしてこんなに頑張れないのか、元気がでないのかがよくわからない状態で、行政にもそのノウハウがない。しかし何もしないで知らんふりしているわけにもいかない。ここでもやはりNPO・非営利セクターなどとの協力が大切になってくると思います。

 そのひとつのヒントをお示ししましょう。これも外国の事例になってしまうのですが、写真はドイツのベルリンにある自助運動組織、ゼキスというのですがその本部の写真です。ドイツ語でFrauen、女性という掲示板があって、そこにいろいろな掲示物が貼っていて、たとえばDV(ドメスティック・バイオレンス)に悩む人集合といったことを書いてあります。さらによくみると、DVならDVのグループでお互い助け合いましょうというだけではない。同じDVでも、ドイツ系の家庭で起きているDVとムスリムの家庭で起きているDVでは中身が違うわけですね。一方で解決法がみつかってもそれが他方に通用するとはかぎらない。そうした千差万別の問題に対応していくためにはそれぞれ別のグループをつくらなければいけない。そこでこういう掲示板が大きな役割を果たすわけです。自治体の資金でNPOがこうした場所を提供・運営して、そうした人びとが問題解決の緒をつかむことを支援する。そのことによってこうした橋が架かるということです。

 IVの橋では地域医療の問題もありますよね。たとえば産婦人科のお医者さんがだんだん地域社会から消えていっている。日本の社会保障は薄っぺらいと悪口をいうことが多いのですが、この医療に関しては私たち自身が気づかないで恩恵をうけている部分があります。といいますのも、いま、スウェーデンの医療改革の目標は0790です。この0790がどういう数字かといいますと、「0」はその日のうちに病院と連絡がつく、「7」は1週間以内にお医者さんと会える、「90」は90日以内に医療行為が開始され、手術がうけられるということですね。それが医療改革の目標です。なんて悠長なと思ってしまいますよね。日本の場合はよく1時間待ちの3分診療などといわれますが、とにかくその日のうちに大学病院にだって行けるわけですよね。ところがヨーロッパの国々は、スウェーデンだけではなくてイギリスなどもふくめて、風邪を引いてお医者さんにかかれるのは3日後で、そのときにはだいたい風邪が治っている。日本人の平均寿命が長いのも、食べ物がいいということよりは、とにかく早くお医者さんにかかれる。なぜそういうことになったかといえば、もともと開業医でつくる医師会の勢力が強くて、外来の診療報酬が高く設定されましたので、だんだん外来を歓迎するようになったというからくりもあるのですけれど、とにかく日本の地域ではこれまではわりと簡単にお医者さんにかかることができた。だから早く病気を治せて平均寿命も長くなってきたわけですが、その条件がだんだんと崩れていくわけですね。そこで、DVや抑うつなどの新しい苦しみと生きにくさへの対応とともに、日本社会の強みであった医療サービスをどう再構築していくかということが大きな問題になってくるわけです。

近親者のケアや技能未獲得による参加困難に対して

 II の橋は介護や育児のサービスです。安倍さんが辞める前に、小泉さんがあまりにも社会保障や福祉に冷たかったというので、児童手当などを引き上げて子育てにかかるコストを低く抑えられるようにしましょうという話はしていましたが、そうした実費のコストもたしかに大きい。子どもを大学にやるまで、国立大学の文科系でもだいたい2000万から3000万円。私立の医大にでもやろうものなら6000万円くらいかかるわけですよね。とんでもないお金がかかるのは事実ですが、それはまだいいわけです。じつは、いま子育てにかかるコストで一番深刻なのは何かというと、本当に大きいのは機会コストというもので、大卒の女性が子どもを産むのを諦めて一生働き続けた場合の生涯賃金と子どもを産むためにいったん会社を辞めてパートにでた場合の生涯賃金を比べてみると、国の計算でだいたい2億3800万円くらい違うというわけですね。それに対して、この II の橋がきちんと架けられて、女性が子どもを産み育てながら社会に参加し続けることができれば、まったく状況は変わってくるわけです。つまり児童手当も大切ですが、II の橋を良質な保育サービスを中心に架けていくことがすごく大切になっていくということです。

 III の橋について、さきほどネットカフェ難民等の話をしました。いま失業率がだんだん上がり、働いていても豊かになれないでむしろ生活が厳しくなっていくような人びとが増えていっているわけですね。再チャレンジだとか就労支援だとかいっていますが、じつは日本はこのⅢの橋に使っているお金がものすごく少ない。職業訓練等に使っているお金がものすごく少ないのです。GDP比でだいたい0・5%で、トルコなどをふくめたOECD先進工業国平均の半分以下です。みんな働いて頑張れとか掛け声ばかりかけているけれども何もやってくれていない。

 もう一つ話がややこしいのは、元気で働けない人たちが何に困っているかといえば、たんに手に職がないといった技術の問題だけではなくて、長い間仕事から遠ざかっているなかで他人と普通に付き合いができなくなってしまう。いま、就職先でもサービス業が中心ですから、ある程度にこやかにお店にでてもらわないと困るということをいわれるわけですね。そうすると本人にとってはそれが一番苦手だということになってしまう。そうしたなかで、このⅢの橋も、まず国の責任できちっと自治体に職業訓練等をやるお金を回してもらわなければいけない。しかし、それだけではダメで、長い間仕事から遠ざかっていた人を、いわば社会的リハビリテーションとでもいいましょうか、人と普通に付き合えたり時間が守れるというような状態にまでもっていかなければならないわけですね。そういうのはNPOでなければできないというところがあるわけです。実際、若者自立塾などで成功しているのは、そうした社会的リハビリテーションを一人ひとりのかぎりなく個別な事情に合わせてやってくれているところです。

 NPOは、決まりきったパターンでない、個々さまざまな事情に細かく応じてこの橋を架けてくれる。そのことによって人びとが地域社会で行き交い、また、その橋を架ける作業をとおして人びとが結びつく。こうして地域社会が元気になっていくことができれば、それはおそらく自治体でやっていくことのできる脱「格差社会」への道だと思うのです。I からIVの橋はどれもきちっとコストさえ確保できれば自治体がやっていくことのできる事柄であり、自治体がNPOと協力していくことのできる事柄であるわけです。

4つの橋をどう架けるか?

 この4つの橋の意味とそれをどうやって架けるのかということについて、もう少し立ち入って考えていきたいと思います。地域社会に橋が架かれば、一方通行型ではない交差点型の社会がやってきて、本当にその人が直面している問題を解決できる条件が整ってきます。また、ワークライフバランスとよくいわれますが、図3でいえば、真ん中がほぼ仕事に相当して回りが生活に相当するという読み方もできますが、人生をバランスよく送っていくことができるし、「再チャレンジ」社会なる言葉をあえて使うならば、橋が架かってはじめて「再チャレンジ」社会になっていくということだと思います。

 しからば、4つの橋をどのように架けていくのか。連携するNPOや非営利セクターとは具体的に何なのかということもふくめて考えていきたいと思います。表2に4つの橋それぞれの構成を示していますが、まず自治体が提供する「公共サービス」があって、それから公共サービスと連携する「所得保障」があります。教育サービスがいくら整っていても、仕事を休んで生涯教育をうける間の所得保障がきちんとできていなければ、あるいは育児に専念する間の所得保障がちゃんとできていなければ困るわけでして、そうした「所得保障」が必要となります。それから個別のさまざまなニーズに対応していくNPOの役割があって、これらがすべて総合してこの橋ができているわけです。

 市政調査会には自治体セーフティネット研究会という研究会ができているそうですが、いまちょうど自治体のセーフティネット、なかんずく自治体が生活保護にどうかかわっていくのかということが話題になっています。全国知事会と全国市長会も「新しいセーフティネット検討会」という研究会を発足させ、その報告書が2006年10月にだされました。そこでは稼動世代の制度適用の期間を最長5年間に縮めてしまうとか、聞きようによってはずいぶんなことが書かれているのですが、それ以前の問題として、自治体が生活保護の仕組みを考えなければいけないという流れはどうしてできてしまったのか、それははたしていいことなのか、なぜこのような流れになっているのだろうか。これは三位一体改革のなかで、とにかく自治体は自分たちのことは自分たちでやりなさい、自治とか分権を一言でいえばそういうことになるのかもしれないけれども、それは何から何まで抱え込むこととはずいぶん違うと私は思っているのですが、厚生労働省はそうは考えないで、自治・分権の流れを逆手にとって、たとえば生活保護について、いままでは4分の3くらいを補助金として支出していたのをやめ、一般財源にしてお金を渡すからあとは自分でやってくれ、という流れになっているわけです。その背景としては、たとえば北海道は生活保護率がずいぶん高いじゃないか、北九州市では水際作戦であんなに追い返しているのに北海道はなぜみんな生活保護をうけさせてしまうのか、モラルハザードではないか、というような議論があるわけですよね。だから定額を渡してしまって、あとは自分たちでやれということならば、自ずと追い返すところは追い返すだろうという話になっていくわけです。

 これが実現すると、いわゆる福祉マグネット、生活のためにそこに人がどんどん集まってくるということになってしまいますから、どこも北九州市化せざるを得ない。水際作戦で追い返さざるを得ないということになるわけですね。そういう流れのなかで、全国知事会や全国市長会、そして自治体が生活保護の制度改革について一生懸命考えていくことははたしていいことかとも思います。もちろん思考停止になれということでは決してありません。しかし自治体が一手に生活保護を引き受けてしまうというのも考えものです。人びとの個別の事情に応じてきちっとリスクを解決できるような方向にもっていくことができれば、自治体が生活保護について責任をもつ意味もあるかもしれない。しかし、ご存知のように日本の生活保護というのは、だいたい高齢者が5割、病気で働けない人が4割、本当に何とかすれば働けると想定できる人は1割くらいですよね。ほとんどがもう働くことができないから生活保護をうけているような状況のなかで、自治体がその働けない状況を抱えている人たちのお尻を叩いて働かせるはめになってはいけないのではないかということです。

 年金制度や医療制度がもうちょっとちゃんとしていれば生活保護にならないですむはずなのですが、そうはなっていないから生活保護のお世話になる。それに対して、普通の人びと、自立している人びとが自分の賃金や年金額と生活保護費とを比べて、生活保護のほうがいいではないか、もっと保護費を押し下げろということになってしまうと、これはもうどんどん悪循環が進むわけですよね。5年間の期限を区切れなどという議論も、アメリカの生活保護改革で実際にこういうことをやったのですが、アメリカはたしかに働けるのに働いていない人の割合が日本に比べるとずっと多かったから、その議論に多少の意味があったのですが、日本のような状況でこれを猿まねして持ち込むとたいへん悲惨なことになります。だから、自治体がこれからのセーフティネットを考える場合は、自分たちでやりますよという流れではない。さまざまなNPOの活用などの豊かな事例をベースに、これをもっとうまくやっていくためには、国の生活保護・公的扶助はこうあるべしという設計図を描いて突きつけるということにするべきだろうと思います。その設計図として、たとえば「負の所得税」などいくつかのアイディアもあるのですが、もし時間が許せばあとでお話をしたいと思います。

新しい公共サービスへ

 つぎに、「所得保障」に加えて「公共サービス」も、I からIVの橋の大事な構成要素でして、これをどうしていくのかということです。さきほどNPOを活用するという話をしました。じつは、NPOというと正義の味方ととらえられることが多いので、みんながNPO、NPOというのですが、いろいろなNPOがでてきているわけですね。あるいは、株式会社はみんな儲け本位でNPOは正義の味方ともいえなくなっている。コムスンが事実上破綻しました。あれは株式会社です。株式会社だから儲けに走ってダメになったというのは単純な解釈ですが、じつは、コムスンは10年以上前に北九州市で旗揚げされました。そのときの社長は榎本憲一さんという長野県の医療法人で活躍されていた人なのですが、立ち上げたときに学生を連れてインタビューに行ったことがあります。なぜ注目したかといえば、コムスンは、それまでホームヘルパーサービスは滞在型、つまり昼間の数時間身の回りの世話をして引き上げてしまうタイプの訪問介護が主流であったときに、巡回型、つまり1回15分程度の訪問介護サービス、夜のおむつ交換などをふくむ24時間の巡回型の介護サービスを日本で定着させる、というミッションを掲げていました。そして、このミッションを実現するには制約の多い社会福祉法人ではなく、株式会社にしてしまうのが一番手っ取り早いと考えたわけです。

 2人1組のヘルパーたちが一式の道具をもって軽自動車に乗り込んで、道々を走り回って風のように去っていく。こういうスタイルのサービスをはじめたわけですね。北九州市の何かちょっと汚い本社ビルに学生を連れて行ったときの雰囲気は、いわゆる会社ではなくて、おそらく皆さんがNPOといったときに想像するような、ある種の高いミッションに盛り上がっている雰囲気でした。若い学生たちはそういう雰囲気に非常に敏感ですので、みんな感動していました。それから10年、「六本木ヴェルファーレ」の経営者だった折口さんが買い取った事情はありますけれども、株式会社という法人格は何も変わっていません。コムスンはコムスンです。しかし私たちが訪問したコムスンとはまったく別の何者かに変貌して、そしてじつに悲惨なかたちで舞台を去ったわけです。

 株式会社という点では同じなのに何が起きたのだろうか。あるいはNPOだからすべてが素晴らしいというわけではない。日本の公益法人制度改革のジレンマは、よいことをしている団体だから税金を軽減しましょうとすると、そこにわけのわからない団体がどっと入り込んでくるわけですよね。さらにもっといいことをしている団体を選り分けて特別公益法人などをつくっても、またそこにも入ってくる。要するに、株式会社でも立派なことをやっているところはあるし、NPOでもいいところばかりではない。

 図4はそのあたりの事情を示したものです。かつて協同組合というのは組合員の共益を守るために事業を展開しました。NPOというのは公益性を志向するのだけれども事業性は低くて、アメリカが典型ですけれども寄付を集めてやってきました。しかしいまは事業型NPOなどといって、NPOもどんどんビジネスを志向するようになっているし、それは利益が目的ではないにしても、NPOとしての一定の規模を担保して事務所を運営していくためには事業性がなければならない。協同組合も公益性を志向して介護サービスなどをするようになった。あるいは創設当時のコムスンのように、かたちは株式会社であるけれども公益をしっかり追求しようというところもでてきていて、図の破線で囲まれたような空間が生まれているわけですね。これは協同組合でもありNPOでもあり株式会社でもある。これをとりあえず「社会的企業」と呼んでいるのですが、逆にいえばNPOでも協同組合でも株式会社でも、ここから外れてどんどん私益追求に走ってしまうところもでてきている。私たちには、結局のところNPOだからいい、株式会社だからダメというよりは、地域社会のなかで柔軟に人びとのニーズに対応し公益を実現してくれる開かれた組織をいかに育てていくのかということが問われているのだと思います。

 そのためには、指定管理者制度でも市場化テストでもどんどん入ってきていますが、たとえば市場化テストがコスト第一の競争を強いるとまともなNPOは参入できないわけです。NPOを名乗っているコスト第一の奇妙な集団が入札で受注し、そのサービスを引き受けていくことになるかもしれないし、それをNPOと呼ぶのは自由だけれども、NPOではない何者かになっている可能性がある。法人格は何であれ、行政と本当のパートナーになって対等・平等に、橋のモデルで示したように、行政ではできない細かい一人ひとりのニーズに対応する事業をやってくれるところを探し当てるためには、コスト本位の入札制度や市場化テストあるいは指定管理者制度ではダメなわけですね。そこでは、まったく別のものさしが必要なのです。そのものさしをどうやってつくっていくのかというのはなかなか難しい問題であり、開かれた自由で民主的な組織、高いミッション性を備えた組織をどうやって選び出していくのかというものさしを考えていくのはなかなかたいへんなことですが、そういう観点でのパートナーシップというのは行政にとってもたいへんありがたいことであるはずです。

まとめ――「公」「民」関係の再構築

 そろそろまとめに入っていこうと思います。さきほど橋を架ける事業のなかでパートナーシップの話をしました。いま自治体に市場化テストなどのかたちで課されてきている官から民への流れと、橋を架けるモデルの一環として提案した非営利セクター・NPOの役割というのはどう違うのか。「官」が「公」をすべて牛耳っていて、民間というのは自分のことしか考えていない、だから「官」のほうが偉い、「公」のほうが立派。こういう古いかたちはたしかに終わりつつあるし終わらせなければいけないと思います。ただし、「官」から「民」へといったときに、「民」が私益第一という意味での「私」であり続けるならば、たとえばオリックスのような会社の経営者が「官」から「民」へと号令をかけて、自分たちだけが肥え太っていくにしか過ぎません。

 しかし本当に必要なことは、「官」から「民」への流れが「私」から「公」への流れと同時平行して進むときに、「官」とのパートナーシップ、行政とパートナーシップをとりつつ公共性を担ってくれる新しい「民」が登場してくるわけですね。ところが、この流れというのは自然に放っておいて進むわけではないと思うのです。いま本当に頑張ってやってくれているNPOというのは、その当事者たちが乏しい時間をやりくりしながら何とか頑張ってようやくもっている。いわば普通の市民にとって、そうした「公」に接近するということは、たやすいことではないわけですね。普通の市民が自然体で「公」に接近していくというのは、ともかく時間的な制約があるわけです。

 ではどういう条件が「私」が「公」に接近していくことを可能にするかといえば、たとえばさきほどの地域社会に4つの橋を架けるようなそうした新しい福祉モデルがでてきていて、そして人びとが時と場合に応じて仕事から離れて公共とかかわれるような条件がある場合ですよね。そういう橋ができるためには、NPOに頑張ってもらわなければいけないということになると、よく考えてみると堂々めぐりです。卵が先か鶏が先かということになってしまう。でもそうもいってもいられないわけですね。いま橋を架ける事業をできる範囲ではじめながら、より多くの市民がそうした活動に携わることができるような条件をつくっていく。そしてそこから新しいパートナーが生まれてくる。そういう循環を介していかなければならないのだろうと思います。

 ずいぶんと飛ばしてしまって、わかりにくい話も多々あったかと思いますが、とりあえずここで話を締めさせていただきます。

 ありがとうございました。

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